「私は忙しい」という表現と観測者問題
「忙」という漢字がある。偏は立心偏 (りっしんべん) で心を現す。旁 (つくり) は亡である。これが仮に「心が亡くなる」の意であるとする。心は、肉体が計測した情報を収集する、観測の主体である。心が亡くなるということは、その観測の主体がお亡くなりになられているということであるわけだが、その事実を誰が観測しているのであろうか。
「『観測主体がお亡くなりになった。』と観測主体が述べた。」というのは、単に偽である。では「『観測主体の観測精度が低下している』と観測主体が述べた。」これはどうだろう。ここで観測という行為を、ある集合 に対して写像 が集合 を出力して とする写像 であると仮定してみよう。
観測精度が低下することは 個の要素に対して 個 () の要素の写像が不適切 ( となる が存在する) であるということである。さて、入力された集合 は既に観測されたものとして扱うが、出力された集合 は観測されたものだろうか。先の定義に従うならば集合 に写像 を行わなければ観測されたことにならないのではないか。
そもそものこの記述の意図は「忙」という漢字は心がお亡くなりになられているという構成であり、自分の心が亡くなっていることを自分の心が観測できているのは偽なので、僕は「自分は忙しい」という表現を用いたくない、ということを述べたいだけだったのだが、日曜日の朝から思いがけぬ思索を巡らせる結果となって大変満足である。