今日も哲学することができた
どこにも規定されていない義務を持ち出して「Aの権利を行使することは義務だ」と主張する人にも、どこにも存在しない因果を持ち出して「Aの権利を放棄したらBの権利を放棄することになる」と主張する人にも僕はなりたくない。両方とも簡潔に言えば「僕が思うように行動しなさい」ということなので。
— Hiroki Kashiwazaki (@reo_kashiwazaki) 2017年10月25日
この思索を駆動したものは、具体的には「私が投票に行かなかった理由」という題名の、衆議院選挙の投票率に関する NHK NEWS WEB の Facebook への投稿につけられたコメントである。
ここで「権利であって義務ではないので権利を放棄するのも、その人の自由ですが、そのかわり政治が、どんなに悪くなろうと文句を言う権利も放棄した事になる」と述べた人がいる。それに対して「投票は、主権者固有の権利であり責任でもあり義務です。」とリプライした人がいる。義務です、と述べた人はさらに「公民権自体が主権者固有の権利であり責任」と述べており、個人的願望に公益のような隠れ蓑を着せた言説としては散見されるものと言えるかもしれない。
一方、「文句を言う権利を放棄した事になる」というのは資格論のようなもので、「文句を言って欲しくない」という願望が「文句を言う資格がない」へと変貌し、ついには「権利を放棄した事になる」とまで棍棒を肥大させた例なのかもしれない。
そしてこのように述べる僕もまた、これらの人が気にくわないからといって棍棒を艶やかに磨き上げて肥大化させ殴打しているに過ぎないのだ。たとえば「 の権利を行使することは義務だと主張する人がいる。」は単に (要素 は集合 に属する)、「 の権利を放棄したら の権利を放棄することになると主張する人がいる。」は単に (要素 は集合 に属する) というただそれだけのことであり、「要素が集合 に属する」、「要素が集合 に属する」という属性はただの属性に過ぎず、属性の妥当性の議論というものは、自分にとって都合の良い評価軸に引きずり込み独り相撲を取っているようなものである。僕がなりたくないものは、本来はそのような醜悪な痴態を晒す人間なのではないだろうかと問いかける。