今日は哲学することができた
2つ以上の要素に対する変換Tは要素を2つの集合A,Bに属させる。集合Aの要素のうち変換Tにより集合Aの要素となったものは集合Cに属すると見做す要素がある。この「と見做す要素がある」というのはどう表現するか。集合Aの要素かつTにより変換された要素を集合Cの要素とする変換がある、か?
— Hiroki Kashiwazaki (@reo_kashiwazaki) 2017年10月12日
集合Aの部分集合を集合Cの部分集合とする変換Rがある、か。そうなのだ。ただそこに変換があるだけなのだ。この変換に良いも悪いもない。この変換が世界を断裂させると嘆いたところで、全ての変換は世界を断裂させると言うことができる。他の変換と何も変わらない。ただそこに変換があるだけであり。
— Hiroki Kashiwazaki (@reo_kashiwazaki) 2017年10月12日
これは先日の痛ましい交通事故について、加害者を知性の低い人間と罵る人を見て悲しくなったことに起因する。当初わたしはこの罵る人をどうすれば悪であると断罪することができるだろうかと考えた。どうすれば批判することができるだろうかと。自分が嫌いなものを理論により肥大化した鈍器で殴打し、自分が抱いた不快感を少しでも払拭したかったのである。
事故という事象はそれまでは被害者・加害者でなかった人々 (要素) を被害者 (集合 ) と加害者 (集合 ) に属する要素とする変換である。一般の事故として考えてもいいし、ある特定の事故であっても同様である。集合 の要素は集合 (知性の低い人々の集合) と同一である、あるいはどちらかがどちらかの部分集合であるという命題は存在しない。であるから、集合 の要素を集合 に属すると「見做す」人がいる、というのは単に集合 (あるいは集合 の部分集合) を集合 (あるいは集合 の部分集合) とする変換 があるということに過ぎない。
集合や要素、そして変換には善悪がない。集合 (や要素) を善という集合や悪という集合 (に属する要素) とする変換があるだけだ。そして変換後の集合は、普遍的な概念としての善悪とは関係がない。
このような思索を経ることにより、わたしが嘆いた対象はただの変換に過ぎないことが分かる。わたしが必死になって断罪しようとしたものは、ただの変換に過ぎないことが分かる。わたしはある変換に対して、棍棒を大きくすることに腐心して、どうすればこの変換をやりこめることができるか考えていたのである。そのことを愚かしいと思うかどうかもまた、一つの変換である。そこに自己嫌悪やくだらなさを見出すのも、ただの変換である。
こうしてわたしは心の平穏を得ることができた。今日は哲学することができた。