非合理性

現代哲学のキーコンセプト 非合理性

現代哲学のキーコンセプト 非合理性

 

 リサ・ボルトロッティ、鴻浩介「現代哲学のキーコンセプト 非合理性」読了。このあいだどこかで言った気がするけど、読んでいて腹が立ってたまらなかった。それは僕が「合理性なるものがあるもんか」という立場で読んでいるからで、この本は「合理性があるのは当たり前」という人に書かれているのだろう、ということを最後まで読み終えてようやく気付かされた。

合理性というのは英語ではrationalityだが、ratio + nal (形容) + ity (名詞) という組み立てから分かるように合理性というのは ratio (割合) が適切である様を述べていて、それは何との割合であるかというと「社会 (が求める人格像)」と (自分の現実の人格と) の釣り合いを指しているのだという。そしてこの「社会が求める人格像」があるからこそ法があり、罰則がある。そして刑法39条に記載されている、刑法上心神喪失状態にあるものを罪に問わないというのは、まさにこの合理、すなわち、ひどい話に聞こえるかもしれないが「人間であるかどうか」を問うているのである、というのには唸らされた。

僕はこの「調和」なるものが (たとえば「常識」のような概念のように) 一意に定まるものか、存在するものかと懐疑的に思っているから、合理性が存在するという考え方に反撥したのだが、しかし思考停止して合理性の存在を疑わない人と同じように、何の根拠もなく合理性が「ない」と主張する僕もまた同程度に軽薄なのだ。この合理性に関する議論は自由意志に関わるのでは…と思った矢先に解説の一ノ瀬正樹がそれについて言及していて「やられたー」という気持ちになった。悪くない読後感である (ただし解説があったからこそ) 。

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